賀川豊彦について

賀川豊彦

賀川豊彦は1888 年賀川純一と益栄の次男として神戸に生まれました。 5歳の時に両親と死別し孤独な少年時代を送った賀川は、 7歳の時に赤痢に感染してからというもの、何度も生死をさまようなど、生涯病に苦しめられました。

1909 年12 月24日、賀川豊彦は病に蝕まれ余命いくばくもない体をかかえて、残された生涯を貧困に喘ぐ人々の救済にささげるため、 神戸のスラムに身を投じました。 その後、労働組合運動、農民運動、協同組合運動、無産政党樹立運動などに献身し、関東大震災が発生するや、 東京本所にて、罹災者救済やセルツメント事業に力を尽くしました。

児童福祉(教育)の分野では、幼稚園や保育園を設置して、子ども家庭支援事業を展開すると同時に、「児童虐待防止論」、「9 つの子どもの権利」、 「子どもを叱らずに育てる工夫」、「幼児自然教案」などの著作活動を行い、子どもたちに対して常に暖かなまなざしを注ぎながら 愛に基づいた事業を実践しました。 1999 年12 月には、ユニセフ国連児童基金の世界児童白書にて、賀川豊彦が「子どもの最善の利益を守るリーダー」 として、世界の52 人の一人に選ばれました。

また、賀川は生涯を通じて日本と世界にキリスト教の伝道を行い、戦後は伝道のかたわら世界連邦運動を提唱し、生協運動の指導者として活躍しました。 これらの諸活動を担いながら、一方では、宗教、哲学、経済、社会、文明批評、随筆、小説等、多岐に渡る著作を発表しています。 代表作の小説「死線を越えて」は日本最初のベストセラーとなりました。

賀川豊彦の事業は関西、関東を初め全国に数多くの同志を組織して展開され、その運動や事業は現在においても広範囲に渡って継続されています。